1009

良くないことばかり思い出す。ここで終わってしまったらこの人生は確実に失敗だという気がする。

こうやって書いたものはいつまで残っている。自分が見つけようと思えば見つけられる所にある。インクの染みとインクの染み込んだ紙は処分しない限りすぐに消えたりしない。そう考えると声はすぐに消えるし便利だ。空気の振動はいつまでも残らない。けれど誰かに声を聞かれていたら、それは他人の中に記憶として残ってしまう。他人は驚くぐらいに自己の記憶を信用している。それをたまに不思議に思う。聞き間違いかもしれないのに、思い違いかもしれないのに、些細なことなのに覚えている。少し怖い。自分にとって些細な言葉が他人の記憶に深く残ったりする。そういう経験が多かっただけだと思うけれど。

長生きすればする程、感動できるものを見つけるのが困難になる気がする。生まれたばかりのときは全てが自分にとって新しいものだったはずで、生きていれば新しいかったものは既知のものになってしまう。なにより言葉を知って自分の感情やらなにやらを言葉に当てはめるのが上達してしまう。国語の勉強をすれば言葉にできないものを見つけにくくなる。気がする。一度目以降の経験は一度目の経験のときの感覚を引き出しから引っ張り出して使っているような気がする。

生きていれば無意識にパターンを学習してしまう。経験した感動を踏まえて新しい感動を見つける。やっぱり少しずつ難しくなっていくような気がする。

もうよくわからないし、そんなことはないような気がしてきた。

1008

夜に散歩するのがとても好きだ。人とすれ違うことも少ないし、静かだし、眩しくないし、目に優しい。景色は遠くまで見えないけれど、遠くの明かりが綺麗に見える。昼や朝に比べて情報量が圧倒的に少ない。それがとても心地良く感じるし、音楽を聴いて曲にあわせて歩けるし、ぼんやりしたことをゆっくり考える事ができる。最近よく聴いているLOSERは夜っぽい感じがするので聴きながら歩いてるだけでふつうに楽しい。夜に気軽に出歩けるという点において自分が男性でよかったと思う。

1006

曖昧で独りよがりな出来の悪い文章をつらつらと書いて、結果としてそれが全体的にくだらないものになっている。まだ読書感想文とか書いた方が読み応えがありそうだ。

カート・コバーンの遺書の最後の一文は引用らしい。急に何を言ってんだって感じだけど。どこかで最近それを知った。どこかというのも多分Twitterだけど。そもそもカート・コバーンをよく知らないし、それについて知っていることといえば米津玄師のLOSERって曲の歌詞に名前が出てくるってことくらいだ。ニルヴァーナというバンドは聞いたことがある気がする、アップルミュージックとかで。少しずつ気になってきているのでいつか聴きたい。聴くと思う。その遺書の引用の部分は「徐々に色あせていくなら、いっそ燃え尽きた方がいい。」という部分がニール・ヤング(存じない。)の引用らしい。だからなんなんだ。

1005

今まで書いたものを読み返すと当たり前のことが書いてある。「赤色が赤い」みたいな。馬鹿なんじゃないか。うんざりする。

我々は語り得ることしか語り得ない。らしい、それはなんだかとてもつまらない気がする。

自分の文章にも価値がないと感じてるような調子じゃ自分の人生の価値なんてたかが知れている。人生には解釈をつけてあげなきゃいけない。それらしいストーリーを組み立てたてて自分がそれに納得しなければ虚しい人生になってしまう。虚しい人生っていうのも解釈だけれど。

1004

なにか選択するとき自分でそれを選んでいると思っている人とそう思っていない人では幸福度が違うらしい。運命みたいなものを信じているかとかいないとかだったかもしれない。うろ覚えだ。

自分はどちらかというと選んでいないと思っている方の人間であると思う。決まっていたものを受け入れるような態度で考えるようなことが多い。例えば天気にだって理由はあるし、サイコロを振ってでた目だって理由がある、自分の今の感情にも理由はある。複雑で理解できないものの積み重ねの結果だ。と考えている。その積み重ねの結果も時間があれば理解できるかもしれないけど。そんなくだらないことをいつまでも調べている暇はない。そんなことをしていたら気がついた頃には死んでしまいそうだ

たくさんの選択肢から好きなものを選んでもいいと言われたとき、好きなものが既に決まっていてそれを選ぶなら選択肢なんて最初からなかったのと同じなんじゃないかと思う。気まぐれで選んだとしても同じことが言えるかも知れない。直線でも曲線でも結局はどこからか続いてきたものでしかないし、続きである限りその前の出来事に影響されている。影響の続きが今だ。一通りしかない。分岐点があったとして通ってきていないものは確認できない。なんだか少し話がずれた気がする。扱いきれない感じがしてきた。

そんなことを書いたけれど、今からこんな文章を書くのをやめて散歩に行くことだってできると思うし、ベッドの上で寝ることもできる。自分のことを深く観察すればこれから僕がどういう行動をするのかわかるかもしれない。ただ普段はこんな選択肢を意識していない。選択肢を認識していない。あまり迷っていないんだと思う。そもそも迷っているのかいないのかさえ考えていない。迷ってもいないし迷っていないこともない。

解釈をしていない。意味を見いだしていない。選択肢について考えればそんなの無限に近いほどの選択肢が見えるきがするけれど、それを全部考える暇はないのである程度選択肢を絞っている。除外した選択肢は存在しなくなる。存在しなくなるというか最初から無いんだけど。

結局、選択肢を見ていないから選んでいない気分になるというとかそんな感じだろうか。選んでいるという認識をもっている人が幸福なのは、今現在の自分に至るまでの経過を知っているから現状に愛着が湧くとかそんな感じだろうか。もう面倒になってしまったので適当に終わらせたい。終わりにする。